深酒の代償 大石CL外来通院 堀田安彦

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  この寄稿文は、神奈川県断酒連合会機関誌「かながわ断酒」/平成23年1月1日号より、同会および筆者の了承を得て転載するものです。
=←写真は、天高く一日一日と伸び続ける建設中の「東京スカイツリー」:本年1/1撮影=
 筆者の今後の断酒の一日一日を願って添付しました。  管理人
  「深酒の代償」 厚木断酒新生会:堀田安彦
 確か昭和60年頃の事と思いますが、会社」の健康診断で肝臓が相当悪いので他の病院で再検査する様にとの事。行きつけの医院で血液検査をしたところ、残念なことに10日間の加療を要するという診断が出されました。幸い通院で良いという事なので、会社に其の旨の報告と休暇届を出すと共に仕事の引継ぎで現場を一巡しました。「先輩、それじゃ暫く飲めないから今晩一杯行きましょうよ」と誘われ、根っから好きなものだから二つ返事でOKしました。その晩は3軒ばかりハシゴをし終電車でどうにか藤沢駅に着いたまでは良いのですが、目が覚めたのがバス停のベンチの上でした。周囲は朝の通勤客で一杯で、方々の体で朝帰りしました。これが酒を飲んでの第1回目の外泊で、ワイフが怒ること、怒ること。それから10日間は点滴を打ちすっかり良くなりました。が、1ヶ月もすると又、仕事を終わるのも待ち遠しく同僚と飲み屋に通い始めました。馴染みの女が出来たのもその頃で、月末になるとその支払いで毎月頭を痛めました。薄給の身の上ですからそんなに続く訳がなく破産寸前に追い込まれ、上司に頼み込みどうにか精算することが出来ました。ついでに電車通勤を止め、その頃まだ「いすず」で製造していた乗用車(ジェミニ)をローンで購入し通勤することにしました。
  それから平成6年の定年迄は、どうにかこうにか長男の結婚、長女の結婚と片付き、次女も就職して無事終えました。定年時に留年も求められましたが、留年した先輩達の姿を拝見するとどうにも気が進まず、当時は失業保険も貰えましたので長いこと世話になった会社を去ることにしました。考えてみると、その間相当酒を飲みましたが、二日酔いこそすれ病院に行く程ではありませんでした。然し、朝帰りはワイフがあきれる程ありましたね。
  あんなに楽しみにしていた定年後の休みも、いざその時になると、どう有効に過ごして行ったら良いのか考えが浮かばず、朝から一升瓶を抱えてゴロゴロの毎日でした。そこで、今まで相当ワイフを泣かせて来ているので二人でヨーロッパに行くのも一つの方法だなと思い、たまたま広告に出ていたヨーロッパ旅行の計画を立て、8日間の旅へと出掛けました。その間、毎日のワイフの喜びの顔を横目で見ながら私は水より安いビールをホテルやバスの中で毎日飲み放しでした。ガイドさんも、「堀田さんはよく飲みますね」と呆れ顔で言いました。帰国後なんとなく体がだるく熱っぽくて行きつけの医者で検査をしたところ、肝臓ばかりか糖尿病の疑いも出たので飲酒は慎む様にと注意されました。傍にいたワイフには、脱水症になっているので水を沢山飲ませるように、それと酒を飲んだら御飯を沢山食べさせるようにと注意していました。そんな事を医者に言われても直ぐには酒癖は治りません。ワイフには内緒で日にワンカップを一杯、二杯と飲む量が増えて行きました。
 そんな日々が2ヶ月過ぎた土曜日、身体が震え、両手の痙攣が長時間止まらず、タクシーで病院にかけこみ、点滴と痙攣止めの注射、肛門から便を採り、4時間くらいで帰宅しました。其の後は薬を呑み呑み何とかアルバイトを3ヵ月ばかりして74歳で打ち止めにしました。それにしても私にとって其の年は最悪の年でしたね。45歳になる長男の死、長女の膠原病の発病、其の年の1月に家族全員で食事をしたのに長男は3月にあの世逝きですから、もう身体中の力が抜けて酒を飲まずにはいられませんでした。次女の膠原病は一人生活が無理で、藤沢の2DKから3DKの海老名に引越し3人で暮らすことにしました。
 一昨年の12月に私の久里浜アルコール症センターへの入院が決まった時、娘の左卵巣の腫瘍の手術と重なり、私一人で入院しました。最後の一杯は、久里浜駅前の食堂での朝食の時にゆっくり味わいました。
 昨年の3月に退院、大石クリニックを紹介され、そこで大和つくし断酒会、厚木断酒新生会の方々を紹介され有意義に過ごして居ます。

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